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オウム信者脱会カウンセリング ー虚妄の霊を暴く仏教心理学の実践事例ー  第2章 オウム信者脱会カウンセリング活動より

オウム信者脱会カウンセリングー虚妄の霊を暴く仏教心理学の実践事例ー

第2章 オウム信者脱会カウンセリング活動より

 オウム信者脱会カウンセリング活動への経緯

 1995年3月、私は地下鉄サリン事件とオウム真理教への強制捜査を、ネパールのカトマンドゥ郊外、ボーダナートにあるウーギャン寺院に滞在していた時、偶然「ラジオ日本」で知った。1995年1月の第6回ブッダガヤ世界平和セレモニーの実行委員としての役割を無事に終え、師タルタン・トゥルクと共にエベレスト山麓にあるマラティカ窟にて旧暦新年の瞑想参篭を満願した、その後のことであった。
 東京の地下鉄で、オウム真理教がサリンを散布し、十二人を殺害し、約五千三百人を負傷させた。「これは、日本で大変なことが起きている」と感じ、師に「すぐ、日本に帰らせてください」と願い日本に帰国した。それ以来、私はずっとオウム信者の脱会カウンセリングを行っている。

 私の活動は、現役信者や脱会信者と直接会い、オウムの教義とチベット仏教本来の教えとを照らし合わせ、その違いを明らかにする脱会カウンセリングである。また、信者を子供に持つ親の相談も行ってきた。そして、オウム信者の脱会カウンセリングを進める中で得た様々な情報を警察、公安調査庁などの捜査機関へ情報提供、情勢分析、見立てなどの交流を持ってきた。今まで百人以上の信者と対話を深め、脱会届を書いてもらい、社会復帰を支援するという地道なボランティア活動を行ってきた。

 私は、仏教を標榜するオウム真理教が引き起こした一連の事件を、日本仏教史におけるトラウマ的悲劇だと一仏教徒として憂いている。私自身がオウム真理教信者たちと同じ、80年代のニューエイジや精神世界を共に育ってきた同世代である。多くのオウム信者はオウムの教えをインド仏教以来の正統な教義だと信じ、真剣に「解脱」を求めてきた。彼らは麻原教祖を最終解脱者、最高のグルだと信じ、人類を救済したいと修行に励んできた。オウム事件の一番の不幸とは、導いた教祖とその教えに問題にあると、私は考える。私自身は、オウム信者との出会いを、カウンセラーという立場というよりはむしろ、仏法を真剣に語り合える仏縁として考えている。だから私は、一人でも多くのオウムの修行者たちと仏法を語ってきた。私は、一人でも多くのオウム信者に会って正法を語り合い、正しい仏道を自らの二本の足で道を歩んでほしいと願い、脱会カウンセリング活動を行っている。
 一方、今、日本人自身が日本の精神文化とは何か、仏法とは何かを真剣に考え正さなければならない時代であるとも考えている。オウム問題は、親子問題、家族問題、社会問題など様々な日本の影の問題を含んでおり、日本人がじっくりと向き合わなければならないテーマである。

 オウム信徒救済ネットワーク

 オウム事件への強制捜査後1995年6月、オウム被害者の会(現在の名称はオウム真理教家族の会)、被害者対策弁護団、宗教者、心理学者、精神科医、教育者、カウンセラー達によって「オウム信徒救済ネットワーク」が発足し、オウム信者達に対してのマインドコントロールを解く救済活動として始まった。当時、刻一刻と情勢が変化してゆく中、情報交換や分析などを行い、オウム教団や現役信者への脱会への対応が話し合われた。
 この「オウム信徒救済ネットワーク」は、後に日本脱カルト研究会(Japan De-Cult Council)という名称となり、2004年に日本脱カルト協会(JSCPR)(The Japan Society for Cult Prevention and Recovery)として、カルトやマインドコントロールの研究団体に発展している。現在、日本脱カルト協会は交流及びカルト予防策や社会復帰策等の研究とその成果を発展・普及させることを目的としており、相談事業は行ってはいない。

 私は事件直後、この「オウム信徒救済ネットワーク」に加わり、弁護士や学者、牧師、僧侶たちとオウム信者の対応を行ってきた。1996年には、オウム信徒救済ネットワークとして共著「マインドコントロールからの解放」が発行された。その中でオウム教義の誤謬を仏教の戒定慧の視点から指摘した「第六章 仏教を語る教祖が迷えるブッダをかどわかす」が、オウム現役信者や脱会信者の中で注目され、そのコピーが拡散していったようだ。昼夜を問わず毎日のように多くの信者から面会、対話、カウンセリングを求める連絡が相次いだ。当時、地元の私立高校で講師をしていた私は、夕方に訪れた信者と面会した。また夜は遅くまで多くの信者と電話での対応を行った。
 ある日、オウムのニューヨーク支部長から突然の電話があった。彼女は、「真剣に仏教を求めてオウム真理教に入信したので、もしもオウムの教えと本来の仏教の教えが違うならば、脱会したい」という意思を秘めていた。国際電話で仏教論を重ねる中、最後に彼女は脱会を決意した。その後、アメリカ議会のオウム真理教に対する公聴会において、彼女はガラス越しで証言に立った。
 

 オウム真理教家族の会

 オウム事件以前は「オウム真理教被害者の会」と称していた信者を子供に持つこの会は、オウム事件で加害者となった子供もいるために「オウム真理教家族の会」と名乗るようになった。
 この家族の会は、現役信者の子供とコンタクトし脱会への道を模索する相互協力の会であるために、決してその存在をオープンにすることなく、密かに活動をしてきた。それは、現役信者の親が「家族の会」で活動していることをオウム教団に知られると、その信者はさらに監視され親と引き離されてしまうからだ。だからマスコミやメディアにも「家族の会」の会員の存在や情報を明らかにすることなく、活動を行ってきた。
 マスコミやメディアへの表の顔としての対応は、会長の永岡弘行氏が行っている。永岡弘行氏は1989年「オウム真理教被害者の会」の設立以来、会長としてオウム真理教と戦ってきた。1995年1月、オウム真理教被害者の会会長VX襲撃事件の被害にあい、生死の境をさまよいながらも一命を取り留めた。永岡会長のオウム教団に対する一貫した姿勢は、家族の会の強い意思を世間に表明する重要な存在である。そして、「家族会」の顧問としては滝本太郎弁護士、小野毅弁護士が付き、多くの家族の相談に親身に対応いただき、またオウム教団の的確な情勢分析を「家族の会」に提示し、親や家族の支えてなっている。
 
 「家族の会」は全国に幾つかの地域ブロックに分かれている。「家族の会」の実際の運営は「事務局」が行い、地域ブロックの調整や全ての相談の窓口としての重要な役割を果たしている。そして各地域ブロックには、主に統一教会などのカルトから脱会カウンセリング活動を行っているキリスト教の牧師たちが定期的に勉強会、相談会、また実際的な脱会カウンセリング活動を行い、家族を支えている。
 しかし、「家族の会」と今だ家族を現役信者に持つ親は、表に出て意見を述べることもその存在をオウム教団に明らかにすることもできず、長い間ジレンマに陥ってきた。最近ではホームページを開設し、その活動や呼びかけを行っているが、設立から20年以上を経た今、多くの親は高齢となり「家族の会」の今後の活動の困難さも課題となっている。

 私は、過去20年間に渡る脱会カウンセリング活動を通して、多くのオウム信者達の悩みや社会復帰への助言をしたり、教義的問題を語り合ってきた。それと同時に「オウム信者家族の会」での勉強会や相談会を通して、また個人的に家族や親の相談を受けてきた。特に未だ教団にいる現役信者の親の悩み、その対応など、脱会に向けた取り組みの相談や対話を重ねている。ある時は、キリスト教の牧師たちと共にチームを組み、脱会活動を行ってきた。脱会カウンセリング活動を通して、真剣にオウム問題に取り組む素晴らしい人格者の多くの牧師たちと宗教を超えて交流を持てたことは、私にとって貴重な経験だと感謝している。

 特筆すべきは1995年のオウム事件直後から数年間、「オウム信者家族の会」の事務局を一手に引き受けていたA氏の存在である。オウム教団の強制捜査直後、A氏の弟が十数年ぶりに教団から自宅に逃げ戻り、家族の説得によって脱会へと迷うまでに至った。そして兄のA氏に手を引かれるように私と面会する機会を得た。対話を重ねる中で、オウムの教義の問題やチベット仏教との違いが明確になり、彼は脱会へと至った。このA氏の弟は元中堅幹部の立場から、教団内の彼の友人、知人、部下へと芋ずる式に声を掛け、当時オウム事件の真偽に心揺れる百人近くの現役信者との会話が始まった。
 家族会の事務局であったA氏と同じく現役信者を弟に持つB氏と私の三人は、オウム信者の脱会活動を実行する私的なミーティングを頻繁に重ねていった。この活動は家族会にも公にすることなく、独自の活動として脱会信者から現役信者に呼びかけ、オウム教義の間違いと教団の反社会性を問い掛け、脱会へと導くという計画であった。この計画は「全て秘密裏に行い、決して表に出さない。公表することなく、ただ淡々と結果を出そう」と誓い合った。
 当時のメディアには「オウム真理教を扱った番組は、簡単に視聴率が取れる」という「オウムの法則」が蔓延しており、あらゆるテレビ局や新聞、雑誌が取材を求めていた。しかし、メディアにこちらの脱会活動をオープンにすることで教団からの攻撃や妨害が予想されたため、私たちは一切メディアにこの活動を出すことなく、脱会活動に徹しようとした。当時、新幹線で東京から自宅に帰る時には、必ず私の待ち時間に東京駅でミーティングをしていたので、私たち三人は、これを「東京駅の誓い」と呼んでいた。

 現役信者の家族は、オウム信者の親の苦悩を世間に分かってもらいたいが、一方で「家族の会」の活動を教団に知られたくないというジレンマを抱えている。脱会信者のプライバシーや社会復帰への支援には、メディア取材はオウム信者脱会への支障にも成り兼ねないからである。当時は、微罪逮捕で服役した教団大物幹部や信者を出所後に何人も脱会させたため、当時のオウム教団から狙われていたことも事実であった。オウム教団内での当時の幹部による説法会では、「林に会うな」「林は教団の敵である」と名指しで批判された内容のオウム幹部の説法テープを、脱会信者から手渡されたこともあった。
 当時、現役信者に会って、「オウムの教えと仏教の教え、これほど違う」ということを、地道な脱会カウンセリング活動に専念していた事は、後々の脱会カウンセリングにも多くの良い結果としてつながっていった。「東京駅の誓い」は、私とA氏、B氏とのオウム信者脱会活動への真剣な誓いの証でもあった。

 江川紹子氏は多くの現役信者脱会信者に対し、深い理解を示してくれていた。当時、多くのオウム信者にチベット仏教の話をするために一般の集会所や公民館を借りることは難しく、彼女が事務所を提供してくれた。時に信者20人ほどが江川事務所に集まり、脱会に揺れるオウム信者からヨーガや瞑想に関する疑問や質問攻めにあっていた。事務所を出て駅に行く道すがら、各々オウム信者をマークする公安警察が尾行する。「彼は私の担当です」「あの人は私の担当です」と、20人ほどの信者を数十人の私服公安警察が道の交差点や店の影から尾行する姿が、何とも不思議な異常な風景であったことを記憶する。

オウム信者脱会カウンセリング
ー虚妄の霊を暴く仏教心理学の実践事例ー

目次

   はじめに

第1章 虚妄の霊

    虚妄の霊 カルトマインドの深層心理
    日本シャンバラ化計画 無差別大量殺戮計画      
    織田信長に憑依した欲界第六天魔王
    オウム教団信者の情勢分析 黒魔術儀礼串刺し写真 
    「ヒト、モノ、カネ」のカルト

第2章 オウム信者脱会カウンセリング活動

    オウム信者の脱会カウンセリング活動への経緯

    オウム信徒救済ネットワーク
    オウム真理教家族の会

    カルト入信の罠に、たまたま偶然はない
    親権による強制保護「救出カウンセリング」
    信者のタイプ
    親子関係 親の愛を知る
    親が子を思う真実の愛とけじめ
     
    オウム教義と反社会性の再検証から「ゆらぎ」へ

    脱会 仏教カウンセリングという道標

    受刑囚の脱会プロセス ダルマを語れる法友
    参考資料 仮釈放要望の上申書

    オウムを突き抜ける
    脱会信者からの便り

    願いはオウム教団が解散すること
    オウム文化人を批判する 親の視点の欠如
    思想家に愛があるのか 

第3章 オウム教義を論駁する カルト教義から正法へ 

    カルトのマインドコントロール
    マインドコントロールを解く鍵
    二元論の罠
    鏡の世界とその本質(二つの真理)
    オウム教義の誤謬 「カルト理論の2:8の法則」
    神秘体験と精神の物質主義
 
    殺人肯定理論’ヴァジラヤーナ’の教え 教祖の戯論を見抜け

    カルト教義から正法へ

    虚妄の霊 オウム顔には何が憑いたのか?
    オウム信者を審神者(さにわ)する
    憑依から変容へのオウム的修行 変性意識

    薬物イニシエーションによる神秘体験
    奥深い心の告白 オウムを辞められない理由

    「グルのクローン化」という麻原にはなにが「憑依」したのか

    チベットのシュクデン信仰と「魔」
    なぜ’麻原彰晃’はチベット仏教を語ったのか

    「聖なる狂気」と持ち上げた 「智慧の欠如」
    「集合的末那識」の投影 「虚妄の霊」
    智慧の光明が「虚妄の霊」を晴らす

    
第4章 脱会カウンセリングのプロセス 真実の親の愛 

    家族の会の講演記録から オウム信者の帰る処

    家族の会の講演記録から
    脱会自立への3つのビジョン 
    短期のビジョン 「世間話」
    コンタクト 「メール」「手紙」「携帯」
    子供の姿を見る安心感
    「親の愛」の方便 「世間話」が出来る
    「ゆらぎ」は、自分で考えることの第一歩

     中期のビジョン 脱会に向けて
     「本音」で語り合う
     子供の心と親の成長
     親の精神的学びとは

    妙法蓮華経第四信解品 放蕩息子のたとえ
    仏教カウンセリングの可能性
    オウムを突き抜ける求法の道
    「脱会届」というイニシエーション
    
    オウムからの卒業
    二本の足で立つ 「精神的自立」「社会的自立」 
    着地点は「親離れ、子離れ」    

第5章 虚妄の霊を生んだ闇の構造  

    オウムの暗闇を問題提起する

    LSDと覚醒剤の宗教儀式「イニシエーション」
    薬物イニシエーションの後遺症「神秘体験」 
    LSDの臨床実験データのゆくえ
    狂気の妄想が「虚妄の霊」を生む

    裏オウムと裏金 「虚妄の霊」が実存するのか   
    マスコミによる捜査撹乱 「国松長官狙撃事件」
    メディア、捜査機関の役割 継続性の問題
    オウムの闇の深層 「日本シャンバラ化計画」の全体像
    一人オウム 自然脱会はない
    虚妄の霊がゆく金剛地獄の道 松本智津夫の悪人正機 

第6章 虚妄の霊を超える 

    カルト入信の罠に、たまたま偶然はない
    親の愛の祈りと光が、虚妄の霊の暗闇を晴らす
    着地点は「親離れ、子離れ」
    道標としての脱会カウンセラーの存在
    智慧という希望の光

   あとがき

霊咊のビジョン2

令和と霊和の日本的霊性より

はじめの一歩
菩薩の請願 梵鐘勧進活動

 日本は、令和の新しい時代になりました。私は昭和、平成、令和の三つの時代をまたぐ世代です。その昭和時代に、何人かの明治生まれの先達の方々から道を示していただく貴重な機会を得ました。私は昭和のバブル経済時代に梵鐘を作るという誓願を立て、浄財を募って全国を行脚し、勧進活動を行なった経験があります。この梵鐘勧進の誓願は、三年の時間を経て成就することができました。これは、私自身の菩提心を形に現すという行でもありました。
 
 私の師タルタン・トゥルク・リンポチェはチベット生まれの転生ラマです。師は三五歳の時、 西洋に仏教を伝えるという菩薩の誓願を立て、一九六九年にアメリカに渡り 一九七五年より生徒たちと共に北カリフォルニアの山奥でチベット仏教のお寺、オディヤン寺院の建築を始めます。アメリカ独立建国以来のフロンティア精神は西部開拓へと続き、ネイティブアメリカンが亀の島と呼んだ大地は、常にチャレンジの場でした。タルタン・トゥルクもこの地に仏法を伝えるというチャレンジ精神を以て、菩薩の誓願を果たすためにアメリカへ渡ったのでした。
 私は一九八四年に渡米し、オディヤン寺院の建築作業に参加しました。ここで私は自身の人生を開く非常にユニークな体験をします。八〇年代当時のオディヤン寺院の生徒たちは全員西洋人でした。アメリカ人の気質は、今もカウボーイの世界です。西部開拓の酒場で酒を飲み、相手が気にくわないとピストルで撃ち合う。もちろん今は弾を撃ち合うのではなく、エゴの言葉で心をグサッと撃つのです。私はアメリカのチベットのお寺に、エゴ を捨てに行ったはずなのですが、エゴに直面し辛い思いをしました。同時に、エゴを捨て るためにはまずエゴを確立する重要性を確信しました。これはトランスパーソナル心理学の理論に、前個的なレベル、個のレベル、個を乗り越えた超個のレベルという三つの段階 が示されますが、エゴを乗り越えるためには、まずはエゴを確立することの必要性を身をもって実感したのです。

 オディヤン寺院での仏道修行を通して、私は自分自身の心を深く見つめ、瞑想と実生活を通して煩悩や自我に向き合い、それを乗り越える訓練によって心が透き通り、心が透き 通るから更に周りがよく観え、その体験が積み重なるように修行が深まっていきました。そして、ハッと気付いたとき、心の中に輝く光明が高揚感と交わり、その輝きが一つの大きなビジョンとして湧き起ってきました。
 タルタン・トゥルクは西洋のカリフォルニアに西方浄土の仏国土を今生に造りたいというビジョンを抱いて、チベットからアメリカに亡命されました。オディヤン寺院はカリフォ ルニア西海岸の山上、太平洋を見下ろすことができる場所にあります。そこから見晴らす太平洋に沈む夕日の光景は、まさに西方浄土です。
 そして「日本で生まれ育った私が、カリフォルニアの地から太平洋に沈む阿弥陀の浄土 の夕日に手を合わせ、その日本に沈む夕日の向こうにチベットがある。そのチベットから 師が西廻りでアメリカに仏法を伝え、そして今、私はカリフォルニアで仏国土を建設している」と、このような西方浄土のビジョンがぐるぐると地球を回り始め、「果たして西方浄土とはどこにあるのだろうか」と更にビジョンが広がり、「今、ここで自分が立っている場が仏国土に他ならない」と思い至ったのです。その時、過去から未来につながる深い 仏縁を感じ、震えるような歓喜の感覚が湧き起こってきました。
 その歓喜の感覚が「アメリカと日本、西洋と東洋のダルマのかけ橋になりたい」という私の菩薩の誓願の確信に至りました。私はアメリカのエゴを嫌いますが、彼らの自由さ開放さが大好きです。そんなアメリカに、日本の心、精神を伝えたい。日本仏教の精神性、 霊性を伝えたいという大きなビジョンとして広がっていきました。

 日本の文化が醸し出す精神性、霊性は、アメリカという成立ちが違う数百年の歴史とは全く異なるものがあります。日本人は謙虚なので、その心を表に出すのが苦手なのですが、今の時代だからこそ、日本人が自分自身の文化や霊性を正しく見つめ直し、自信を持って世界に発信することが、日本人の役割ではないかと思い至ったのです。
 そのビジョンは具体的な形として醸し出され、梵鐘というビジョンとして開きました。 梵鐘は法具の一つであり、ダルマの重要なシンボルです。大乗仏教の内にある密教には、 法身、報身、応身と三つの存在のレベルがあります。法身のレベルでは梵鐘は全くの空で す。しかし、報身のレベルでは目には見えませんが、ゴーンと音が鳴り、その響きが伝播します。そして応身のレベルでは、梵鐘という仏教美術の法具として存在します。また、インドから中国、日本に仏法が伝播する仏法東漸というお釈迦様の予言「仏法は高きから 低きに、西から東に伝わる」というビジョンの具現と相合わせて、「梵鐘をアメリカに寄贈したい」という誓願が、このビジョンの中で広がり、私は仏教徒として生きぬく確信を得ました。
 チベット仏教ではラマの生き方に二つの道があります。一つは、出家僧としてお寺の中で学問の勉強と祈りを深める道です。もう一つは、世俗に入り社会の中で、世間の人と同じ暮らしをしながらも ( 同事 )、世俗に染まることなく欲を離れてダルマの道を求める ( 出離 )。この同事と出離の気持ちを持って、菩薩の道を歩むことが社会の中で生きる道です。

 この菩薩的生き方が本書のテーマ、霊性の確信となります。
 一九八六年、私はオディヤン寺院から日本に帰国し、何のあてもなく勧進活動を始めました。その時、香取正彦先生という人間国宝の梵鐘づくりの名人の存在を知り、アポイトメントを取ってご自宅を訪ね、「梵鐘を作りたいです」と相談しました。香取先生は「変わった若者じゃね」と仰りながらも、口径三尺の梵鐘が黄色調の一番いい音がすると教えてくださり、私はその口径の梵鐘を作る事に決めました。香取先生のご紹介で富山県高岡市の梵鐘作りの老舗、老子製作所にて三ヶ月間工場に住み込んで、梵鐘作りを学ばせて頂きました。その後、東京を拠点に活動を始めたのです。
 梵鐘勧進を目的に、浄財を喜捨していただくため、全国を行脚しました。当初一年半は本当に虚しい時間を過しましたが、その時に、いろいろな方々にお会いする機会がありま した。出会う方々に「アメリカのチベットのお寺に日本の梵鐘を寄贈したいので、浄財を喜捨していただけませんか」とお願いしますが、十人中九人からはおかしな事を言う人と思われていたようです。しかし、その内一割の方々からは「面白い人ですね。頑張ってください」とご支援と協力を戴きました。
 最終的には、百二十の個人団体様から喜捨を戴き、高さ六尺、口径三尺、重さ一トンの梵鐘を形にすることができました。日本仏教の本山クラスの寺院や有名な神社からもご支援いただきました。そして、飛騨高山を皮切りに全国九ヶ所、高山、奈良東大寺、天河弁財天社、高野山、京都亀岡、高野山東京別院アートパフォーマンス、八ヶ岳、浄土真宗岐阜別院と、梵鐘が自ら意志を持ったようにかけ廻り、「音声供養」を各地で行うことができました。
 そして一九八八年八月、野田卯一氏の働きかけで船会社日本郵船にアメリカのサンフラ ンシスコ港まで梵鐘をご厚意で運んでいただき、アメリカ北カリフォルニアのオディヤン 寺院に無事寄贈することができました。野田氏は、日蓮宗系日本山妙法寺の藤井日達上人と交流が深く、世界各地や国内百八の仏舎利塔建設に尽力されました。またネイティブアメリカンホピ族のメッセンジャー、トーマスバンヤッケ氏のホピ国パスポートでの入国に尽力された方でもあります。
 この時の三年間は、ビジョンを形にするという精神的にも現実的にも非常に大変な勧進活動でしたが、一方で多くの方々に出会う貴重な機会に恵まれました。その時の多くの方々70年代渡米し、ネイティブアメリカンとの出会いが今も私の励みであり、この体験が求道心と智慧の源になっています。

 一九八八年秋、オディヤン寺院に参籠した私は、師タルタン・トゥルクと面授しました。 師は日本から寄贈された梵鐘をとても喜んでくださり、オディヤン寺院仏舎利塔正門に吊るし、毎朝晩、世界の安寧を願ってその音声を四方に響かせています。
 この機会にと、私は師に「出家をさせてください!」とお願いしました。梵鐘勧進活動の三年間、日本仏教の多くの出家僧の方々と出会い、深く仏法を語り合う機会をいただき、 釈迦族になる出家の功徳を感じていたからです。
 その時、師は手元にあった経典を包む赤紫の日本の風呂敷に描かれた二羽の鶴の絵柄を指差し、私に言われました。
「鶴は、私の故郷東チベットアムドゴロクの霊山アムネマチェンにも飛んでいるんだよ。日本にも鶴がいるだろう。私は鶴が大好きだ。『くぁー、くぁー』と鳴くんだ。夫婦で仲良く飛ぶんだ。『くぁー、くぁー』と、ほら、あなたも鳴いてみなさい」
 私は師の鳴き声を真似て、「くぁー、くぁー」と何度も鳴きました。夕日が太平洋に広がるカリフォルニア一面の空に、師と私の「くぁー、くぁー」と鶴の声が響いていました。
そして、師はこう語りました。
「この三年間、期待も絶望もしなかった。自らが菩薩の誓願を立て、菩提心を梵鐘という形にし、この西洋の地に布施したこと。この尊い菩薩の精神こそがこれからニンマの教 えを学ぶ一番の重要な器だ。あなたには出家は必要ない。二羽の鶴を見習いなさい」と。

その智慧が、チベット仏教ニンマ派に伝わるゾクチェンという教え、金剛乗最奥部にある心の解放の教えです。

恭賀新年2023 霊咊のビジョン1

恭賀新年 
霊咊の智慧の光明が五濁の蒙昧を晴らし、安寧の世となることを心よりお祈りいたします。

令和と霊和の日本的霊性より

第三章 般若心経から深まる日本的霊性 
    1-4 カリフォルニアの青い空


 カリフォルニアの青い空は、自由と開放の象徴です。一度その地を体験した人は、誰もがカリフォルニアのオープンな気風を感じることができるでしょう。北カリフォルニアのレッドウッドの森林地帯に佇むオディヤン寺院は、八世紀にパドマサムバヴァが落慶法要をしたチベットのサムイェー寺院と同規模の巨大な立体曼荼羅寺院です。そこにはチベッ トや飛騨山中の氣風と同じ青い空があります。オディヤン曼荼羅の外側にあるチャペルと 呼ばれる小さなお寺にタルタン・トゥルクは居を構えています。生徒の氣が熟すと彼の自宅で、リンポチェに面授の機会を得ます。

 ある時、リンポチェに呼ばれた私は、黄色い布から解かれた大きな経典の束を見せられました。
 「以前、あなたが語っていた、ミスターササメがパンチェンラマから譲り受けた経典は、多分これだろう。この経典は般若経の一部だ」
 それは金泥直筆の古いチベット経典で、チベット大蔵経の一部でした。
 「この経典はサザビーズのオークションに出品されていたものだ。少々高値だったが、 ミスターササメのために手に入れた」

 晩年の笹目先生にお会いした時、「盗賊に盗まれたパンチェンラマの大蔵経がカナダの とある銀行に抵当として保管されていることを突き止めた」と言われていたことを思い出 しました。リンポチェは、「大蔵経の一部を現金化するために、オークションに出品したのだろう」と推測されていました。
 パンチェンラマの大蔵経が百年の時を超えて、さまざまな因縁の果てに、チベットの地 からアメリカ大陸の北カリフォルニア山中のオディヤン寺院に辿り着いたのでした。その 経典の一部が般若経とは、偶然とは思えないほど驚くべきことでした。

 タルタン・トゥルクは、散逸するチベット大蔵経を収集し、新たな装丁で百二十巻のニ ンマ版とし、一九八〇年に米国でチベット大蔵経を開版します。その後、チベットに伝わっ た全ての仏典や論釈書を蔵外教典八百巻に編纂し、仏典の保存に力を入れてきました。

 更に一九八九年から、インドのブッダ成道の地ブッダガヤにて世界平和セレモニー、モンラムチェンモを主宰し、一万人の亡命チベットラマ僧らが祈りを捧げる法要を毎年開催しています。そして、法要に参加する全てのラマたちと亡命チベット寺院に、毎年膨大な経典の無償配布を行なっています。チベットという千年仏教国の国土が侵略されて六十年 以上が経ちますが、タルタン・トゥルクの経典保存に対する熱く強い思いは、歴史的価値 を持つ経典の焚書を目の当たりにした深い悲しみを、経典無償配布事業を通して、未来への仏教復興を願う生涯を掛けた惜しみないプロジェクトとして続けられています。

 チベット仏教では般若経に説かれる智慧の瞑想が、何も捉えらない青い空に喩えられる ように、その広大な空間と意識空間は同等と見ます。青い空に雲が現れても、それは常に 生々流転し、一瞬も留まることなく、来ては去ってゆくものです。その雲は、私たちの心 に去来する思考そのもの、雲を追うことなく、青い空間をただ見つめること、密教ではそ れが意識の本質そのものだと理解します。

 この広大な空間を仏教では、法界 ( ダルマダートゥ ) と言います。

タルタン・リンポチェへの長寿の祈り

タルタン・リンポチェ
クンガ・ゲレック・イェシェ・ドルジェ(Kun-dga dGe-legs Ye-shes rDo-rje)への長寿の祈り

ゾンサー・ジャムヤン・キェンツェ記す

クン(Kun)ツザンポ・ガ(Ga)ラップドルジェ・ヴァイロツァーナ、
我らニンマ派の三種の相伝による全ての持明者の御師達。

この法脈を護持し弘法するタルタン・リンポチェの菩薩行に、
比類なき思念を以って称賛いたします。

崇高なる具現者タルタン・リンポチェの蓮華の御足が堅固であられますよう、
私、ゾンサー・ジャムヤン・キェンツェがお祈りいたします。

タルタン・リンポチェの知識と慈悲と法力の完成は、
善根(dGe-legs)と功徳の白蓮華の輝きを自発の因とし、
三界の闇の深みを照らし出す太陽のよう。

タルタン・リンポチェの仏法の教えが存続し、
その栄誉と功績が末長く伝えられますよう。

不死なる原初の智慧(Ye-shes)の大いなる輝き、
無量寿如来の光明よ、
仏法を護持する比類なき高貴なタルタン・リンポチェを祝福し、
更なる法力が与えられますよう。

タルタン・リンポチェの三密と三身が、
不滅の金剛(rDo-rje)として、
この地上に留まり続けますよう心よりお祈りいたします。

タルタン・リンポチェの娘、ツェリンの勧めにより、
私、ゾンサー・キェンツェ・トゥプテン・チョキ・ギャツォが、
最勝なる帰依処である吉祥の法要に寄与される、
最善なるタルタン・リンポチェが、健康で長寿であられますよう、
この祈願文を記し、心よりお祈りします。

2013年癸巳10月3日の朝

シッディラツ!
この祈りが成就しますように!

御岳山大噴火から8年の鎮魂の祈り

オーン

御嶽大権現の大御霊様
世界経綸の扉を開く
みのおわりの丑寅の坤神にて
遥か古より万国大日の本におわします
豊受大神国常立尊

その本地は観世音菩薩にして
慈雨の如く衆生を豊かに潤し恵みて
法身阿弥陀如来の智慧の光明
密意パドマサムバヴァの金剛心
円満成就の神変を以て

八紘一宇の大日の本を
栄え給え、幸え給え
守り給え、鎮まり給え
安寧の弥勒の世へと、導き給え

三世十方諸仏の如来の智慧よ
最善の働きへと解き放ち給え

かむながらたまちはえませ
かむながらたまちはえませ
フン パット

2014.9.27 御岳山大噴火への鎮魂の祈り

岐阜新聞8/19 関ヶ原の戦い前哨戦 乱闘橋古戦場 不思議な石 歴史の謎解き

 

「謎の石」大量発掘、人工的な切り込み跡 岐阜市の川岸、地元僧侶「武士の弔い用」推測

 岐阜市と羽島郡岐南町の境を流れる境川。その川岸から不思議な石が大量に掘り出された。発見者は、この地で関ケ原合戦の前哨戦の一つ「乱闘橋の戦い」があったことから、戦死した兵を弔うために置かれた石ではないかと推測する。似た石は、市内の加納城跡の石垣にも見られるといい、そのつながりを探る“歴史の謎解き”に挑んでいる。

 発見者は、同市領下の林久義さん(62)。チベット仏教のラマ僧として高山市に寺院を構えるが、中学生の頃からのライフワークで郷土史家の顔も持つ。
 石は、岐阜市の厚見中学校の東、境川に架かる中野畑橋付近で発見。今年春までの護岸工事で掘り出されたという。その護岸に面して父が営んでいた工場があるため、そこに100個余り保管している。

 河原に転がっているような丸くて大きな石。川だから当然だろうと思うが、林さんは明治時代の地形図を眺めながら「ここは昔、川ではなく畑地だった」と話す。岐阜市と岐南町の境界線が凹状に南に張り出している区域で、昔は境界線のように川が蛇行して流れていたが、昭和の河川改修で河道を掘削し、直線に。そのため、河原石が出るはずがない、と思いを巡らす。

 さらに、気になる点があるという。「石に切り込みが入っている。人工的に加工した跡だと思う」。河原石のような丸石のほか、金華山の構成岩石のチャート石も出てきたという。
 そして、推測する。慶長5年9月15日(1600年10月21日)の関ケ原合戦。その前哨戦の一つで、岐阜城落城につながる「乱闘橋の戦い」(慶長5年8月22日)がこの地であった。西軍の岐阜城主・織田秀信(織田信長の孫)と、東軍の池田輝政の軍が衝突。四、五百人近い兵が命を落としたといわれ、「その供養塔として石を置いたのでは」と林さん。

 謎はまだある。似た石が加納城跡の石垣に見られるからだ。城跡を案内してもらうと、確かに石垣の内側に丸石、外側にチャート石が使われている。丸石には切り込みも確認できる。

 林さんは、さらに推測する。「加納城ができる前の時代、南東方向に川手城と正法寺があった。これらが廃虚になり、関ケ原合戦後の1602年、加納城を築城する時にここから石を運んだ。でも、供養塔などに使われていた石は忌み嫌われた。そのため、荷役に加わった村人たちが、乱闘橋の戦いの死者を弔うために持ち帰ったのではないか」と持論を語る。

 ただ、あくまでも推論といい、岐阜市の文化財保護課などに声をかけて手がかりを探っているという。それでも長い年月、当時の面影を保ったまま残り続ける石。林さんは「石は歴史を語る。誰かが運んできたからここにある、と考えると興味深い」と歴史の謎解きの妙味を語る。