霊咊の公案 7)

令和と霊咊の日本的霊性より
第四章 自由の菩薩と弥勒の世

美濃尾張の鬼門 北の閻魔堂 

 私は五十年ほど前、中学生の夏休みの研究「長森城の研究」をきっかけに、美濃各地の旧所遺跡等を調べてきました。中でも驚いたことは六五〇年前に建てられた北の閻魔堂という鬼門封じの地が荒れ果て、今では石しか残っておらず地図にも示されていない場所に 成り果てていることでした。因縁が複雑にもつれた土地でした。私の地と血の因縁にも関 わるこの閻魔堂の跡地で、私は今もお経を唱え、お祈りを続けています。 

 今から六五〇年ほど前の南北朝時代、後の美濃守護職初代土岐頼貞は後醍醐天皇の詔を受け、足利尊氏や新田義貞と組み鎌倉幕府を滅ぼしました。頼貞は、後醍醐天皇の建武の新政の立役者の一人です。その後、足利尊氏が後醍醐天皇と袂を分ち北朝を建て、その後六十年ほど南北朝時代が始まり、土岐氏は北朝室町幕府側に立ちます。
 二代土岐頼遠は、バサラ武将と呼ばれた奇妙な人で、北朝の光厳上皇が巡行されるとき 泥酔し、「犬が通る? 犬ならば射てやる」と弓を弾き不敬罪で捕まり首をはねられてしまいます。酔って北朝の上皇に弓を引いたということは、腹の中は南朝だったということでしょう。北朝にとって美濃の土岐氏の立場は重要で、足利幕府は土岐を追いやることができず、美濃守護職三代に土岐頼康という頼遠の末の甥を立てました。その後、頼康は北朝室町幕府の尊氏、義詮、義満に忠誠を示し、実質的な幕府の長老へと昇りつめます。そ の忠誠心から、美濃守護職から尾張と伊勢を三国を与えられ東西南北の重要な拠点を支配 します。ですので、今の岐阜は海なし県と言われますが、当時三十年ほど領地には伊勢湾に面した海があったのです。そしてその領地には伊勢神宮、熱田神宮、甚目寺観音など重要な霊地を抱えていました。 

 頼康が美濃、尾張、伊勢の三国を統治し、政治の中心として川手城を作り、その霊的基 盤として正法寺を建立します。その開山に紀州和歌山興国寺の禅僧、嫩桂正栄 ( どんけい しょいうえい ) を招きます。当時の興国寺は臨済宗法燈派と知られ、南北朝時は南朝側に 付いていました。つまり頼康は嫩桂正栄やその周辺の南朝方らと密かに南北和解を模索ていたのではないかと推測します。頼康は南北和解の動きを探りながら美濃、尾張、伊勢 の三国を支配し、その中心の地が当時の美濃の川手城だったのです。 

 ここで興味深い霊的現象が起こります。三国を統治する頼康は、ある夜、夢の中に閻魔 様が現れ、「我を艮金に祀るべし」とお告げを受けます。頼康は驚いて自ら四十センチほ どの閻魔像を彫り、川手城の艮の鬼門に閻魔堂を建てその地を祀ります。これはまさに、 美濃、尾張、伊勢の三国の土地の因縁から現れた艮金の金神です。艮金の金神、荒神、荒 御魂が、閻魔様という権現として、頼康の夢に現れたのです。私はこの頼康にかかった霊体が、後醍醐天皇の憤怒相の霊体だと感じています。 

 私はこのみのおわりの霊的発動を求めて、各地の霊場を調査をしたり様々な祈りを試みましたが、どうやらこの仕組みを解く鍵が美濃尾張の鬼門に位置する御嶽山にあると感じ取りました。そして、一九九七年から御嶽山の飛騨側山裾一合目に位置する寒村に移住し、 師の法脈を守り伝えるためのチベット仏教のお寺と仏舎利塔を自作し、ここ飛騨の地で祈りを捧げています。 

 美濃尾張の鬼門である北の閻魔堂の因縁話はまたの機会に、他の美濃尾張の霊地を交えながらゆっくりと詳しくお話したいと思います。