タルタン寺便り」カテゴリーアーカイブ

霊咊のビジョン2

令和と霊和の日本的霊性より

はじめの一歩
菩薩の請願 梵鐘勧進活動

 日本は、令和の新しい時代になりました。私は昭和、平成、令和の三つの時代をまたぐ世代です。その昭和時代に、何人かの明治生まれの先達の方々から道を示していただく貴重な機会を得ました。私は昭和のバブル経済時代に梵鐘を作るという誓願を立て、浄財を募って全国を行脚し、勧進活動を行なった経験があります。この梵鐘勧進の誓願は、三年の時間を経て成就することができました。これは、私自身の菩提心を形に現すという行でもありました。
 
 私の師タルタン・トゥルク・リンポチェはチベット生まれの転生ラマです。師は三五歳の時、 西洋に仏教を伝えるという菩薩の誓願を立て、一九六九年にアメリカに渡り 一九七五年より生徒たちと共に北カリフォルニアの山奥でチベット仏教のお寺、オディヤン寺院の建築を始めます。アメリカ独立建国以来のフロンティア精神は西部開拓へと続き、ネイティブアメリカンが亀の島と呼んだ大地は、常にチャレンジの場でした。タルタン・トゥルクもこの地に仏法を伝えるというチャレンジ精神を以て、菩薩の誓願を果たすためにアメリカへ渡ったのでした。
 私は一九八四年に渡米し、オディヤン寺院の建築作業に参加しました。ここで私は自身の人生を開く非常にユニークな体験をします。八〇年代当時のオディヤン寺院の生徒たちは全員西洋人でした。アメリカ人の気質は、今もカウボーイの世界です。西部開拓の酒場で酒を飲み、相手が気にくわないとピストルで撃ち合う。もちろん今は弾を撃ち合うのではなく、エゴの言葉で心をグサッと撃つのです。私はアメリカのチベットのお寺に、エゴ を捨てに行ったはずなのですが、エゴに直面し辛い思いをしました。同時に、エゴを捨て るためにはまずエゴを確立する重要性を確信しました。これはトランスパーソナル心理学の理論に、前個的なレベル、個のレベル、個を乗り越えた超個のレベルという三つの段階 が示されますが、エゴを乗り越えるためには、まずはエゴを確立することの必要性を身をもって実感したのです。

 オディヤン寺院での仏道修行を通して、私は自分自身の心を深く見つめ、瞑想と実生活を通して煩悩や自我に向き合い、それを乗り越える訓練によって心が透き通り、心が透き 通るから更に周りがよく観え、その体験が積み重なるように修行が深まっていきました。そして、ハッと気付いたとき、心の中に輝く光明が高揚感と交わり、その輝きが一つの大きなビジョンとして湧き起ってきました。
 タルタン・トゥルクは西洋のカリフォルニアに西方浄土の仏国土を今生に造りたいというビジョンを抱いて、チベットからアメリカに亡命されました。オディヤン寺院はカリフォ ルニア西海岸の山上、太平洋を見下ろすことができる場所にあります。そこから見晴らす太平洋に沈む夕日の光景は、まさに西方浄土です。
 そして「日本で生まれ育った私が、カリフォルニアの地から太平洋に沈む阿弥陀の浄土 の夕日に手を合わせ、その日本に沈む夕日の向こうにチベットがある。そのチベットから 師が西廻りでアメリカに仏法を伝え、そして今、私はカリフォルニアで仏国土を建設している」と、このような西方浄土のビジョンがぐるぐると地球を回り始め、「果たして西方浄土とはどこにあるのだろうか」と更にビジョンが広がり、「今、ここで自分が立っている場が仏国土に他ならない」と思い至ったのです。その時、過去から未来につながる深い 仏縁を感じ、震えるような歓喜の感覚が湧き起こってきました。
 その歓喜の感覚が「アメリカと日本、西洋と東洋のダルマのかけ橋になりたい」という私の菩薩の誓願の確信に至りました。私はアメリカのエゴを嫌いますが、彼らの自由さ開放さが大好きです。そんなアメリカに、日本の心、精神を伝えたい。日本仏教の精神性、 霊性を伝えたいという大きなビジョンとして広がっていきました。

 日本の文化が醸し出す精神性、霊性は、アメリカという成立ちが違う数百年の歴史とは全く異なるものがあります。日本人は謙虚なので、その心を表に出すのが苦手なのですが、今の時代だからこそ、日本人が自分自身の文化や霊性を正しく見つめ直し、自信を持って世界に発信することが、日本人の役割ではないかと思い至ったのです。
 そのビジョンは具体的な形として醸し出され、梵鐘というビジョンとして開きました。 梵鐘は法具の一つであり、ダルマの重要なシンボルです。大乗仏教の内にある密教には、 法身、報身、応身と三つの存在のレベルがあります。法身のレベルでは梵鐘は全くの空で す。しかし、報身のレベルでは目には見えませんが、ゴーンと音が鳴り、その響きが伝播します。そして応身のレベルでは、梵鐘という仏教美術の法具として存在します。また、インドから中国、日本に仏法が伝播する仏法東漸というお釈迦様の予言「仏法は高きから 低きに、西から東に伝わる」というビジョンの具現と相合わせて、「梵鐘をアメリカに寄贈したい」という誓願が、このビジョンの中で広がり、私は仏教徒として生きぬく確信を得ました。
 チベット仏教ではラマの生き方に二つの道があります。一つは、出家僧としてお寺の中で学問の勉強と祈りを深める道です。もう一つは、世俗に入り社会の中で、世間の人と同じ暮らしをしながらも ( 同事 )、世俗に染まることなく欲を離れてダルマの道を求める ( 出離 )。この同事と出離の気持ちを持って、菩薩の道を歩むことが社会の中で生きる道です。

 この菩薩的生き方が本書のテーマ、霊性の確信となります。
 一九八六年、私はオディヤン寺院から日本に帰国し、何のあてもなく勧進活動を始めました。その時、香取正彦先生という人間国宝の梵鐘づくりの名人の存在を知り、アポイトメントを取ってご自宅を訪ね、「梵鐘を作りたいです」と相談しました。香取先生は「変わった若者じゃね」と仰りながらも、口径三尺の梵鐘が黄色調の一番いい音がすると教えてくださり、私はその口径の梵鐘を作る事に決めました。香取先生のご紹介で富山県高岡市の梵鐘作りの老舗、老子製作所にて三ヶ月間工場に住み込んで、梵鐘作りを学ばせて頂きました。その後、東京を拠点に活動を始めたのです。
 梵鐘勧進を目的に、浄財を喜捨していただくため、全国を行脚しました。当初一年半は本当に虚しい時間を過しましたが、その時に、いろいろな方々にお会いする機会がありま した。出会う方々に「アメリカのチベットのお寺に日本の梵鐘を寄贈したいので、浄財を喜捨していただけませんか」とお願いしますが、十人中九人からはおかしな事を言う人と思われていたようです。しかし、その内一割の方々からは「面白い人ですね。頑張ってください」とご支援と協力を戴きました。
 最終的には、百二十の個人団体様から喜捨を戴き、高さ六尺、口径三尺、重さ一トンの梵鐘を形にすることができました。日本仏教の本山クラスの寺院や有名な神社からもご支援いただきました。そして、飛騨高山を皮切りに全国九ヶ所、高山、奈良東大寺、天河弁財天社、高野山、京都亀岡、高野山東京別院アートパフォーマンス、八ヶ岳、浄土真宗岐阜別院と、梵鐘が自ら意志を持ったようにかけ廻り、「音声供養」を各地で行うことができました。
 そして一九八八年八月、野田卯一氏の働きかけで船会社日本郵船にアメリカのサンフラ ンシスコ港まで梵鐘をご厚意で運んでいただき、アメリカ北カリフォルニアのオディヤン 寺院に無事寄贈することができました。野田氏は、日蓮宗系日本山妙法寺の藤井日達上人と交流が深く、世界各地や国内百八の仏舎利塔建設に尽力されました。またネイティブアメリカンホピ族のメッセンジャー、トーマスバンヤッケ氏のホピ国パスポートでの入国に尽力された方でもあります。
 この時の三年間は、ビジョンを形にするという精神的にも現実的にも非常に大変な勧進活動でしたが、一方で多くの方々に出会う貴重な機会に恵まれました。その時の多くの方々70年代渡米し、ネイティブアメリカンとの出会いが今も私の励みであり、この体験が求道心と智慧の源になっています。

 一九八八年秋、オディヤン寺院に参籠した私は、師タルタン・トゥルクと面授しました。 師は日本から寄贈された梵鐘をとても喜んでくださり、オディヤン寺院仏舎利塔正門に吊るし、毎朝晩、世界の安寧を願ってその音声を四方に響かせています。
 この機会にと、私は師に「出家をさせてください!」とお願いしました。梵鐘勧進活動の三年間、日本仏教の多くの出家僧の方々と出会い、深く仏法を語り合う機会をいただき、 釈迦族になる出家の功徳を感じていたからです。
 その時、師は手元にあった経典を包む赤紫の日本の風呂敷に描かれた二羽の鶴の絵柄を指差し、私に言われました。
「鶴は、私の故郷東チベットアムドゴロクの霊山アムネマチェンにも飛んでいるんだよ。日本にも鶴がいるだろう。私は鶴が大好きだ。『くぁー、くぁー』と鳴くんだ。夫婦で仲良く飛ぶんだ。『くぁー、くぁー』と、ほら、あなたも鳴いてみなさい」
 私は師の鳴き声を真似て、「くぁー、くぁー」と何度も鳴きました。夕日が太平洋に広がるカリフォルニア一面の空に、師と私の「くぁー、くぁー」と鶴の声が響いていました。
そして、師はこう語りました。
「この三年間、期待も絶望もしなかった。自らが菩薩の誓願を立て、菩提心を梵鐘という形にし、この西洋の地に布施したこと。この尊い菩薩の精神こそがこれからニンマの教 えを学ぶ一番の重要な器だ。あなたには出家は必要ない。二羽の鶴を見習いなさい」と。

その智慧が、チベット仏教ニンマ派に伝わるゾクチェンという教え、金剛乗最奥部にある心の解放の教えです。

恭賀新年2023 霊咊のビジョン1

恭賀新年 
霊咊の智慧の光明が五濁の蒙昧を晴らし、安寧の世となることを心よりお祈りいたします。

令和と霊和の日本的霊性より

第三章 般若心経から深まる日本的霊性 
    1-4 カリフォルニアの青い空


 カリフォルニアの青い空は、自由と開放の象徴です。一度その地を体験した人は、誰もがカリフォルニアのオープンな気風を感じることができるでしょう。北カリフォルニアのレッドウッドの森林地帯に佇むオディヤン寺院は、八世紀にパドマサムバヴァが落慶法要をしたチベットのサムイェー寺院と同規模の巨大な立体曼荼羅寺院です。そこにはチベッ トや飛騨山中の氣風と同じ青い空があります。オディヤン曼荼羅の外側にあるチャペルと 呼ばれる小さなお寺にタルタン・トゥルクは居を構えています。生徒の氣が熟すと彼の自宅で、リンポチェに面授の機会を得ます。

 ある時、リンポチェに呼ばれた私は、黄色い布から解かれた大きな経典の束を見せられました。
 「以前、あなたが語っていた、ミスターササメがパンチェンラマから譲り受けた経典は、多分これだろう。この経典は般若経の一部だ」
 それは金泥直筆の古いチベット経典で、チベット大蔵経の一部でした。
 「この経典はサザビーズのオークションに出品されていたものだ。少々高値だったが、 ミスターササメのために手に入れた」

 晩年の笹目先生にお会いした時、「盗賊に盗まれたパンチェンラマの大蔵経がカナダの とある銀行に抵当として保管されていることを突き止めた」と言われていたことを思い出 しました。リンポチェは、「大蔵経の一部を現金化するために、オークションに出品したのだろう」と推測されていました。
 パンチェンラマの大蔵経が百年の時を超えて、さまざまな因縁の果てに、チベットの地 からアメリカ大陸の北カリフォルニア山中のオディヤン寺院に辿り着いたのでした。その 経典の一部が般若経とは、偶然とは思えないほど驚くべきことでした。

 タルタン・トゥルクは、散逸するチベット大蔵経を収集し、新たな装丁で百二十巻のニ ンマ版とし、一九八〇年に米国でチベット大蔵経を開版します。その後、チベットに伝わっ た全ての仏典や論釈書を蔵外教典八百巻に編纂し、仏典の保存に力を入れてきました。

 更に一九八九年から、インドのブッダ成道の地ブッダガヤにて世界平和セレモニー、モンラムチェンモを主宰し、一万人の亡命チベットラマ僧らが祈りを捧げる法要を毎年開催しています。そして、法要に参加する全てのラマたちと亡命チベット寺院に、毎年膨大な経典の無償配布を行なっています。チベットという千年仏教国の国土が侵略されて六十年 以上が経ちますが、タルタン・トゥルクの経典保存に対する熱く強い思いは、歴史的価値 を持つ経典の焚書を目の当たりにした深い悲しみを、経典無償配布事業を通して、未来への仏教復興を願う生涯を掛けた惜しみないプロジェクトとして続けられています。

 チベット仏教では般若経に説かれる智慧の瞑想が、何も捉えらない青い空に喩えられる ように、その広大な空間と意識空間は同等と見ます。青い空に雲が現れても、それは常に 生々流転し、一瞬も留まることなく、来ては去ってゆくものです。その雲は、私たちの心 に去来する思考そのもの、雲を追うことなく、青い空間をただ見つめること、密教ではそ れが意識の本質そのものだと理解します。

 この広大な空間を仏教では、法界 ( ダルマダートゥ ) と言います。

タルタン・リンポチェへの長寿の祈り

タルタン・リンポチェ
クンガ・ゲレック・イェシェ・ドルジェ(Kun-dga dGe-legs Ye-shes rDo-rje)への長寿の祈り

ゾンサー・ジャムヤン・キェンツェ記す

クン(Kun)ツザンポ・ガ(Ga)ラップドルジェ・ヴァイロツァーナ、
我らニンマ派の三種の相伝による全ての持明者の御師達。

この法脈を護持し弘法するタルタン・リンポチェの菩薩行に、
比類なき思念を以って称賛いたします。

崇高なる具現者タルタン・リンポチェの蓮華の御足が堅固であられますよう、
私、ゾンサー・ジャムヤン・キェンツェがお祈りいたします。

タルタン・リンポチェの知識と慈悲と法力の完成は、
善根(dGe-legs)と功徳の白蓮華の輝きを自発の因とし、
三界の闇の深みを照らし出す太陽のよう。

タルタン・リンポチェの仏法の教えが存続し、
その栄誉と功績が末長く伝えられますよう。

不死なる原初の智慧(Ye-shes)の大いなる輝き、
無量寿如来の光明よ、
仏法を護持する比類なき高貴なタルタン・リンポチェを祝福し、
更なる法力が与えられますよう。

タルタン・リンポチェの三密と三身が、
不滅の金剛(rDo-rje)として、
この地上に留まり続けますよう心よりお祈りいたします。

タルタン・リンポチェの娘、ツェリンの勧めにより、
私、ゾンサー・キェンツェ・トゥプテン・チョキ・ギャツォが、
最勝なる帰依処である吉祥の法要に寄与される、
最善なるタルタン・リンポチェが、健康で長寿であられますよう、
この祈願文を記し、心よりお祈りします。

2013年癸巳10月3日の朝

シッディラツ!
この祈りが成就しますように!

御岳山大噴火から8年の鎮魂の祈り

オーン

御嶽大権現の大御霊様
世界経綸の扉を開く
みのおわりの丑寅の坤神にて
遥か古より万国大日の本におわします
豊受大神国常立尊

その本地は観世音菩薩にして
慈雨の如く衆生を豊かに潤し恵みて
法身阿弥陀如来の智慧の光明
密意パドマサムバヴァの金剛心
円満成就の神変を以て

八紘一宇の大日の本を
栄え給え、幸え給え
守り給え、鎮まり給え
安寧の弥勒の世へと、導き給え

三世十方諸仏の如来の智慧よ
最善の働きへと解き放ち給え

かむながらたまちはえませ
かむながらたまちはえませ
フン パット

2014.9.27 御岳山大噴火への鎮魂の祈り

岐阜新聞8/19 関ヶ原の戦い前哨戦 乱闘橋古戦場 不思議な石 歴史の謎解き

 

「謎の石」大量発掘、人工的な切り込み跡 岐阜市の川岸、地元僧侶「武士の弔い用」推測

 岐阜市と羽島郡岐南町の境を流れる境川。その川岸から不思議な石が大量に掘り出された。発見者は、この地で関ケ原合戦の前哨戦の一つ「乱闘橋の戦い」があったことから、戦死した兵を弔うために置かれた石ではないかと推測する。似た石は、市内の加納城跡の石垣にも見られるといい、そのつながりを探る“歴史の謎解き”に挑んでいる。

 発見者は、同市領下の林久義さん(62)。チベット仏教のラマ僧として高山市に寺院を構えるが、中学生の頃からのライフワークで郷土史家の顔も持つ。
 石は、岐阜市の厚見中学校の東、境川に架かる中野畑橋付近で発見。今年春までの護岸工事で掘り出されたという。その護岸に面して父が営んでいた工場があるため、そこに100個余り保管している。

 河原に転がっているような丸くて大きな石。川だから当然だろうと思うが、林さんは明治時代の地形図を眺めながら「ここは昔、川ではなく畑地だった」と話す。岐阜市と岐南町の境界線が凹状に南に張り出している区域で、昔は境界線のように川が蛇行して流れていたが、昭和の河川改修で河道を掘削し、直線に。そのため、河原石が出るはずがない、と思いを巡らす。

 さらに、気になる点があるという。「石に切り込みが入っている。人工的に加工した跡だと思う」。河原石のような丸石のほか、金華山の構成岩石のチャート石も出てきたという。
 そして、推測する。慶長5年9月15日(1600年10月21日)の関ケ原合戦。その前哨戦の一つで、岐阜城落城につながる「乱闘橋の戦い」(慶長5年8月22日)がこの地であった。西軍の岐阜城主・織田秀信(織田信長の孫)と、東軍の池田輝政の軍が衝突。四、五百人近い兵が命を落としたといわれ、「その供養塔として石を置いたのでは」と林さん。

 謎はまだある。似た石が加納城跡の石垣に見られるからだ。城跡を案内してもらうと、確かに石垣の内側に丸石、外側にチャート石が使われている。丸石には切り込みも確認できる。

 林さんは、さらに推測する。「加納城ができる前の時代、南東方向に川手城と正法寺があった。これらが廃虚になり、関ケ原合戦後の1602年、加納城を築城する時にここから石を運んだ。でも、供養塔などに使われていた石は忌み嫌われた。そのため、荷役に加わった村人たちが、乱闘橋の戦いの死者を弔うために持ち帰ったのではないか」と持論を語る。

 ただ、あくまでも推論といい、岐阜市の文化財保護課などに声をかけて手がかりを探っているという。それでも長い年月、当時の面影を保ったまま残り続ける石。林さんは「石は歴史を語る。誰かが運んできたからここにある、と考えると興味深い」と歴史の謎解きの妙味を語る。

チベット仏教講座30年記念講座のお知らせ その2

2022年 チベット仏教講座30年記念講座のお知らせ その2

みのおわりの霊学史観

ー北の閻魔堂の霊的因縁を解くー

場所:円徳寺 岐阜市神田町6-24 名鉄岐阜駅より北へ徒歩5分

日時:2022年8月21日(日)午後3時 会費:二千円

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 30年前インドブッダガヤセレモニーから帰国後、円徳寺様にてチベット仏教講座を催す機会を頂きました。この30年の法話は昨年「令和と霊咊の日本的霊性ー飛騨の密教行者が語る自由の菩薩と弥勒の世ー」として一冊の本に綴ることができました。

 今月は、チベット仏教講座30年記念講座「みのおわりの霊学史観 ー北の閻魔堂の霊的因縁を解くー」を語ります。650年前美濃尾張伊勢三国守護職の土岐頼康は、霊夢に閻魔王が顕れ「我を牛寅に祀るべし」と啓示を受けます。頼康は鬼門結界の地として北の閻魔堂を祀りますが、後に斎藤道三によってその結界が破られます。その霊的因縁は1600年西軍に組した織田信長の孫秀信が、8月21日南の閻魔堂乱闘橋の合戦、23日岐阜城落城、円徳寺で剃髪、高野山に出家と、その流れが9月15日関ヶ原の戦いに続きます。「えどのしくみはみのおわり」「みのおわりが開くと弥勒の世」「開かないとみのおわり」と霊能者たちが語るように、この霊的因縁は世界の雛形としての現代日本に今も流れています。チベット密教の視点から「一人ひとりの霊性の目覚めが弥勒の世を開く鍵」というお話をいたします。

 8月23日10AM、金華山岐阜城二の丸跡に頼康自作の閻魔像が祀られる閻魔堂で法要を行います。(有志自由参加現地集合)

(次回は、第4日曜日9月25日(日)3pmを予定しています)

チベット仏教金剛乗ニンマ派

ウッディヤーナ山タルタン寺 林久義

E-mail:oddiyana@gmail.com    

https://oddiyana.com/