リンポチェへのインタビュー

タルタン・トゥルク・リンポチェ

タルタン・トゥルク・リンポチェへのインタビュー

生徒

リンポチェ御白身が一九六九年にアメリカにいらして以来、チベッタン・ニンマ・瞑想センター、ニンマ・インスティチュート学院、ダルマ・パブリッシング出 版社、そしてオディヤン寺院を設立されました。またチベット大蔵経、蔵外経典の復刻版などの偉業を成し遂げられました。そして一九八九年からは、ブッダガ ヤ世界平和セレモニーに御尽力なされ、チベット仏教界の復興に多大な影響を与えられています。
ここで少し、リンポチェ御自身のことについてお話していただけませんか。どこで生まれ、家族や子供時代の生活など、あるいは若い頃どのような勉強をなさったのか、うかがいたいのですが。

リンポチェ

私自身についてですね。かまいませんよ。
私は、東北チベットのゴロクという地方のタルタン寺院の近くで生まれました。まだ非常に小さい頃、前のタルタン寺院の座主の生まれ変わり、転生ラマ (トゥルク)として定められました。ラマとはチベット仏教では、ダルマ(仏法)を体現した人物であり、他人を助けることに一生を捧げる人のことを意味しま す。

私に最も大きな影響を与えた師の一人は、私自身の父親でした。父もまた、非常に有名なラマであると共に医者でした。しかし、八才か九才の時、本格的に密教 を学ぶために、私はタルタン寺院につれて行かれました。そこで十四才まで過ごしましたが、その間、仏教哲学、瞑想、密教儀式、美術、文学、音楽などの多く を勉強しました。そして、十八才の時、東チベットのデルゲへ行き、そこで当時生存していた最もすばらしい四人の仏教の師について勉強する機会に恵まれまし た。その四人とは、ジャムヤン・キェンツェ二世、ジャムグン・コントゥル二世、アーギュル・リンポチェ、そしてボッパ・トゥルクでした。ジャムヤン・キェ ンツェ二世は当時、チベットで最も尊敬されていたチベット密教のラマの一人でした。
彼らの元で、私はチベット仏教ニンマ派に伝わる特別な教えを学ぶことができました。私の学習は主に、密教の実践と経典の学習の二つに分かれていました。 この学習期間は、私が二十四才になるまで続きました。またその間に、チベット各地にあるバドマサムバヴァの数多くの聖地を巡礼し、伝統的な数多くの寺院に 留まりながら何十人もの師について学ぶ機会を得ることができました。ですから、全体的には、十五年間の非常にきびしい教育を受けたといえるでしょう。

生徒

チベットを離れた後、インドにいらしたとうかがっていますが。

リンポチェ

一九五八年に、私が最も尊敬するジャムヤン・キェンツェ二世について学ぶために、シッキムに亡命しました。その後、ブータンヘ移り一年間の瞑想修行に入り ました。六〇年代初めに、私はベナレスにあるサンスクリット大学でニンマ派の正式な代表として教鞭をとるよう、ダライ・ラマから要請されましたので、大学 で仏教全般やニンマ派の密教に関する論文を書いたり教えたりしながら、数年、教授の位置にとどまりました。その間に、現在私が運営しているダルマ・バブ リッソングという出版社の前身ともいうべきダルマ・ムードラ・ナラヤを始めました。

当時、私は西洋人とはほとんど接触がなかったので、ヒンディー語は話していましたが、西洋の言葉をほとんど知りませんでした。そのために、出版はけっこう 大変な仕事でした。しかし、このインド時代が後の私にとって非常に実りの多い時期であったと言えます。何故かというと、この時期にパーリ語で書かれた貴重 な仏教経典や、ヒンドゥー教に触れる機会がたくさんあったからです。

生徒

アメリカには、一九六九年にいらしたのですが、なぜインドを離れて西洋で仏教を教えようと決心されたのですか。

リンポチェ

私は、一九六八年にインドを離れ、初めて陸路でイギリスとフランスなどヨーロッパヘ行きました。そしてアメリカに着いたのが、一九六九年の初めです。当時、西洋にはラマが数人しかいませんでしたね。
パドマサムバヴァの予言に、「鉄の鳥が飛び、鉄の馬が地を駆けめぐる時、ダルマは赤い人の土地に伝わるであろう」という言葉がありますが、師ジャムヤ ン・キェンツェが私にその予言を託したと共に、私自身の菩薩の誓願でもありました。まあ、亡命者としてチベットに帰るわけにもいきませんでしたしね。
それにニンマの教えは、西洋に非常に良い影響を与えるだろうと感じていました。伝統的なニンマの教えには、様々な教えの道があります。例えばその中に、 僧侶としての道と社会の中で働く道という二つの考え方があります。私自身は、この社会の中で働く道を選びました。私はこの道が現代人にとって、最も適切な 道のように思えます。

夢ヨーガ チベット仏教至宝の瞑想 第六章ヴィジョンより抜粋